Wednesday, August 28, 2019

ブラッケン・ムーア(Bracken Moor)2019

           画像:https://entertainmentstation.jp/502763



       [ネタバレを含みます]


アレクシ・ケイ・キャンベル脚本『ブラッケンムーア』(東京公演8/14-27、シアタークリエ)は、思いがけず、もう一回、もう一回と結局三度も観劇に足を運ぶことになった味わいの深い舞台だった。

1930年代のヨークシャー。斜陽産業となった石炭産業には急速な機械化の兆しがみられ、大量の失業者を生んでいる。ヒトラーが台頭し、政治情勢の変化も急を告げている。しかし鉱山の持ち主で経営者のプリチャード氏は経費節減のために労働者から職を奪うことを世界を救うために必要な犠牲と言い放ち、すでに困窮を極めている彼らの生活を支えることには興味がない。
そこに、家族ぐるみの友人であるジェフリー・エイブリー氏と妻バネッサ、息子テレンスが10年ぶりにやってくる。友情の途切れた10年。それはテレンスと同い年の親友だったプリチャード家の一人息子エドガーが痛ましい事故により12歳で急死を遂げたことによってもたらされたものだった。テレンスは22歳となり、美しく才気煥発な青年に成長している。しかし、招かれた家の当主であるハロルドに対しむやみに挑戦的にも見える。
息子の死に衝撃を受け10年間屋敷に閉じこもったままの母エリザベスはテレンスとの再会を喜ぶが、感情は凍りついたまま。死の訪れだけを待ちながら「仕方なく生きてきたの」と話す。

やがて物語は急展開する。エドガーの部屋で就寝していたテレンスは悪夢にうなされて叫び声をあげて目覚め、自分の声におののいて居間に降りてくる。エリザベスとエドガーの間だけの思い出の言葉が、なにも知らないはずのテレンスの口からこぼれ、エドガーの霊が取り憑いたような奇妙な行動に凍りつく2家族。やがて、12歳のエドガーのような口調でテレンスは自分が事故死したブラッケン・ムーアに連れていけと言う。なにがあったのか教えてあげようと…。

まるで死の瞬間を再現するようにエドガーが落ちた鉱山の縦穴に落ち、泥の中をのたうつテレンスを助け上げた家族はなんとか帰宅するが、テレンスはその後も床を転げ回り、死が迫る中助けにきてくれない両親を呼び続ける。やがてふと立ち上がって母を呼ぶと、探してくれていたのは知っている、今も探していることも知っているがもうやめてほしい、と優しく語りかける。
「死ぬことは生まれること。ぼくは生あるもののすべて。ぼくはいのち」
エリザベスは彼を抱きしめながら、長年抱えてきた思いを解き放つように泣き声を漏らす。

翌朝、「憑きものが落ちた」ように晴れやかな顔で目覚めたテレンスは、ハロルドに「告白することがある」と言う。エドガーの部屋で死の当日まで記された日記を見つけたと。そこには「母子だけが知っていたはずの言葉」も書かれていた。
騙されたと怒るハロルド。しかしエリザベスはそれが「芝居」だと知ってなお、テレンスのたぐいまれな才能を讃え、ハロルドの価値観に合わせ、ハロルドの庇護と経済的豊かさの中で目を瞑って生きてきた今までの生活を捨てると宣言して家を出る。
一人残されたハロルドは初めてエドガーの名を呼びながら慟哭し崩れ落ちそうになるが、雇用者の生活より経営の安定を優先する姿勢は改めようとしない。
ふと窓辺のカーテンが揺れ、様子を見に窓辺に立ったハロルドが振り返ると、暗い室内に子供の影がある。12歳のエドガーが泥を被った姿で現れたのだ。エドガーは鋭く父の名を呼ぶ…。

物語はざっとこんな展開。
「霊がとりつく」場面では舞台上が暗くなり青白い光に照らされた上半身裸のテレンスが呆然と立っているなど、いわゆるホラー、恐怖譚なのかなと思って見ていると、実はテレンスの迫真の「芝居」だったという告白があって、物語を全く知らなかったわたしはちょっと驚いた。
テレンスの芝居の意図、そもそも芝居を打とうと決めた理由はなんなのか。そしてまだそれが芝居だと知らず、痛ましい息子の死の再現を見るという普通なら余計に精神をかき乱されそうなことがあった翌朝に今までとは打って変わってすっきりとした表情で現れるエリザベスの心には一体なにが起こったのか。息子の死の真相を知ることと、ハロルドと自分の関係性の見直しにはどんな繋がりがあるのか。そして常に怒ったり断定したりしている独善的なハロルドのあの慟哭の意味は?など、最初の観劇の際には色々な場面が自分の頭の中で滑らかに繋がらず、唐突ささえ感じた。

さらに、劇中では特に答えの提示されない「謎」も埋め込まれているように感じた。エドガーとテレンスは親友だったとしても、「自分以上にぼくのことをわかっている」ほどの親友がそうそういるものだろうか。エリザベスの「エドガーは本当にあなたを愛していた」という言葉には必要以上の熱がこもっていなかっただろうか。その言葉が終わらないうちにハロルドが厳しく大声で「やめなさい」とエリザベスを叱責するのは何故なのか。テレンスは何故自分を「結婚すべき人間かどうか」と言うのか。「男はみんな結婚するものだ」と言うハロルドの言葉に「そうでしょうか」と反応してから、少しだけ「しまった」という顔をするのは何故なのか。幼いエドガーはハロルドに「女の子のような振る舞いはよせ」と言われ、なぜ半日涙ぐむほど傷ついたのか。エリザベスは「エドガーを失った同じ痛みを分かち合えるのはあなただけ」とまでテレンスに言うのだ。
この、「エドガーとテレンスの強すぎる絆」がひとつ。

もうひとつは、芝居を打ったことを告白した際に語られた「芸術家」の話。
テレンスは、オックスフォード大学に入学しながらも大学は退屈だと2年でやめて放浪に出たと言う。そしてアトス島で暮らしていた隠遁僧に会った際、自分の将来像を聞かれ、「いつかは芸術家を名乗りたい」と答えたと。すると僧は「生涯忘れられないことを言った」。すなわち、「世界がなにも信じない人間と何かを信じすぎて盲目的になってしまった人間とに分断される時、両者の間に橋をかけるのがあなたの務めだ」と。
しかし、テレンスのあの芝居がその「橋」なのだろうか。誰が「なにも信じない人間」で誰が「何かを信じすぎて盲目になった人間」なのだろうか。

いろいろと宿題を抱えて、もう2回観劇した。残念ながら全ての謎がすっきり解決したとは言えない。
でも、最初に観たときよりは自分なりに少しは「こういうことかな」という推察はできるようになったかもしれない。

まず、テレンスとエドガーの絆について。これは、やはりただの親友同士と考えるにはあまりにも多くのことが「そうではない」と示唆されているように思う。
二人は、固い友情というよりは、想い合う恋人同士に傾いた関係性だったのだろう。

そして、ふたつめの「芸術家(artist)」というものについて。
これはなかなか難題だ。そもそも「芸術家」、「芸術」とは?という定義から考えなくてはならない。キャンベル氏がこの作品を通じて伝えたかった「芸術」の本質、「芸術家」の働きとはなんなのだろうか。

幸い、公演プログラムにヒントになるインタビューが掲載されていた。
なんと彼は2013年のイギリスでの初演時のインタビューで、次のように語っているのだ。

ーこれは最終的にはなんについて書かれた芝居だと思いますか?
芸術についてだと思います。この戯曲の究極のテーマは芸術であり、テレンスは芸術家なのです。彼はプリチャード家の世界にやってきて、自分が作り出した芸術を通してー変身を通して、演技を通してー新しい概念や新しい生き方を彼らに見せます。そうやって彼らを解放するのです。わたしは今日の世界において芸術家や芸術がより広い役割を担っていることに興味を持っています。特に今は宗教というものが以前ほど大きな役割を演じてはいないからです。演劇のルーツは神秘主義やシャーマニズムと深く結びついていますが、わたしたちはその結びつきを失っている。あるいは忘れてしまっていると思うのです。シャーマン(自然界と超自然界の間を仲介する役割をもった人間)というのはこの戯曲が再評価しようとしているものの一つであり、シャーマンとしての芸術家の力を体現しているのがテレンスです。(後略)

おそらくテレンスは演技者という芸術家であると同時に、「人の痛みをわがことのように感じる力がある」類い稀な人間、つまりシャーマンの素質も実際に持った青年という設定なのだろう。

死というものが喪失であり、固定的な事実であり、不幸であり不可逆であるとするとき、そこには絶望しかない。もしくは、全てを捨て去って、ハロルドのように「前に進むしかない」と割り切るか。
しかしそこに「超自然」が割り込み、受け入れることで、死と生は融合しあい、「あなたの息子」と「わたしの息子」に厳しく分かたれていたものは一つになり、そもそもどの命とどの命の間の壁も取り払われ、命という一つのものになる。「ぼくは、いのち」。

エリザベスが「辛く寂しく痛く苦しい中で死なせてしまった我が子」という観念から解放されるには、おそらくこれしかなかったのだろう。

そうして大きな「壁」が取り払われてみると、すべてを狭い「定義」の箱に入れ、人と人を壁で区切りながらでなければ世界を把握できないハロルドのそばいることは「もうできない」とエリザベスは感じたのだろう。

最後まで壁を取り払うことはできなかったハロルドにしても、やはり彼なりに心からエドガーを愛していたことは、あの一瞬の慟哭に痛いほど現れてた。
きっとエドガーの出現が、ハロルドも変えてくれる日が来るのではないか、という希望も少し感じられた気がする。

三度の観劇のなかでも、時間を追って演技の成熟が感じられて、東京千秋楽の27日には最初にはなかった間合いや息遣いの中に、登場人物たちそのものの迷いや痛みやかなしみが感じられた。まさに、キャンベル氏の描こうとした「シャーマンである演技者=芸術家」の姿がそこにあった。

人の心を一瞬で理解し、人を癒し結びつける生来の善意と、類い稀な才能ととてつもない知能を兼ね備え、striking young man, handsome in an unusual wayと脚本に指定されたテレンスをまさにそのままに見事に演じた岡田将生さん、儚げで陰鬱な前半と、晴れやかで強い決意を秘めた本来のエリザベスを演じ分けた木村多江さん、厳格で独善的な中にも秘めた恐怖や奥底の暖かさまでを感じさせた益岡徹さん…みなさん本当に見事な演技で、ブラッケン・ムーアの世界を銀座の劇場に出現させてくれました。

あとで届いた原作を読むと、本ではハロルドとベイリーさんの二人を演じる役者が、衣装の最終調整をしている場面から始まることになっている。そこで一旦暗転して、子どもの声が両親を呼ぶ。
つまり、劇中のテレンスだけでなく、この芝居を演じる役者たち全員が、わたしたちそれぞれの背負っている苦しみを少しでも軽くしたり、別の見方を提供してくれる芸術家でありシャーマンだったのだ。

なんて重層的なお芝居だったんだろう!

なんて、舞台芸術って素晴らしいものなんだろう!

と、思わせてくれた作品。
制作に関わったみなさんに、お礼が言いたい気分です。

Thursday, December 27, 2018

アリー スター誕生 (A Star Is Born)2018

画像:http://www.astarisbornmovie.net/#/Gallery/

なんども映画化されている作品のようだが、レディ・ガガ版のこれが初見。ジュディ・ガーランド版やバーブラ・ストライサンド版に親しんでいる映画ファンの中にはレディ・ガガ版の今回の作品は物足りなく映ったという評価もあるようだけれど、初見でもなおテンプレート的な先を見通せるストーリーでありながら、スターとはなんなのか、ということに真摯に向き合いながら、丁寧にエピソードを積み上げ、共感を誘う作品になっていたと思った。

誰もが歌が上手いと認め、たまにdrag queenたちに混じってショーパブでステージに立つこともあるが、本業はレストランの店員のアリー。たまたま訪れた(なんてことは現実にはなかなかあり得ないと思うけど、まあ)大スターのジャック・メインは彼女の歌に感心し、たまたま聞いた(なんて展開はさらにあり得ないと思うが、まあ)彼女のオリジナル曲に惚れ込んで、翌日の自分のステージに立つよう強引に呼びつける。一度だけアカペラで聴いたアリーの曲の一節を膨らませ、アレンジをつけステージで歌い始め、さあどうする?とステージ袖のアリーを誘うジャック。震えながら前に踏み出し、大観衆を前に存分に実力を解き放つアリー。

その瞬間は、アリーの歌うShallowの歌詞そのままだ。


ねえ、今の生活で満足してる?
それとも自分を変えたい?
俺は倒れそうだよ
うまくいってる時もなにか違うものを求めてしまうし、
ダメな時は自分が怖くなる

ねえ、その虚しさを埋めるのに疲れない?
自分を変えたいと思う?
そんなに一生懸命になって疲れない?

私はもう倒れそう
うまくいっている時も違うものを求めてしまうし、
ダメな時は自分が怖い

一番深いところに飛び込むから見ていて
絶対足がつかないところへ
水面を破って、あいつらがもう私たちを傷つけられない深みへ
そうあんな浅瀬とは縁を切ったのよ

あんな浅いところにはもういない
あんな浅いところにもう行かない
私たちあんな浅瀬からは遠く離れたの

映画はしばしおきまりのコースを辿る。アリーはジャックのコンサートに常連で出演するようになり、実力を見出した敏腕で冷酷なマネージャーがついてどう見てもソレジャナイ感半端ないスタイルに変えさせていくがどういうわけかショービジネス界ではそれが受けるらしくアリーはスターダムを駆け上がる。顔をアップにした巨大ビルボードが街に立ち、グラミー賞にもノミネート。でも、このへんでジャックの心は疼き始める。
ジャックの父親は中年になってから出奔しアリゾナのピーカンナッツ農場で働いていた呑んだくれと説明されるが、「本物の才能のある人だった。お前と一緒にするな」と突然アリーに怒ったりしていたことからも、アリーの父親同様「素晴らしく歌は上手いが素人で終わった人」なのだと思うし、一緒にバンドを組んでみたものの売れなかった腹違いのずいぶん年の違う兄も、元は歌っていたらしい(兄がYou took my voiceと詰っていたから、途中からジャックがメインで歌って兄はギターに専念するとかいう経緯があったのだろう)。そして、ジャックはどうやら本音では父親にも兄にも敵わないと思って嫉妬していたのだろうな、という小さいエピソードが挟まれる。この「最小限の言葉で、言いすぎない程度に昔のことやバックグラウンドを語る」さじ加減がとても上手い。
スターとはなんなのか。歌が上手い人間はゴロゴロいる。スターになるかどうかは「シナトラのような容姿」が決めるのか、敏腕マネージャーがつくかどうかなのか、踊りや衣装などの要素を加えることなのか。宣伝のうまさなのか。

いつもどこかに自分を認めきれない思いを抱え、いずれ聴力を失う不安もつきまといながら、アルコールに溺れた父をなぞるように酒に依存するジャック。でも、もがいた分歌のことは深く考えてきたのかもな、という言葉も何度か出てくる。

「才能は誰もが持っている。でも、なにか訴えるものがあるか、そしてそれを人が聞いてくれるように伝えられるかは別の話だ。そして、やってみなければ聞いてくれるかどうかはわからない」
「今これを言っておかなければ自分を許せない。いいかい、本当に魂の奥深くまで掘り下げなければ、長続きはしない。きみにあるのはきみ自身だけだ。そしてきみが何を伝えたいかだけだ。みんな今はきみの声に耳を傾けているが、永遠にじゃない。ほんとだよ。だからしっかり掴みとるんだ。謝る必要もないし、みんなが何を聞いているか、いつまで聞いているかを気にすることもない。きみはただきみの伝えたいことだけを伝えろ。きみがそれをどう伝えるか、それだけが"天使の仕事"をしてくれるんだ」
スターダムを駆け上がるアリーとは逆に急速に過去の人になっていくジャック。人気商売の過酷さ。そして嫉妬心が拍車をかけ、酒ばかりかドラッグにも頼るようになったジャックは、アリーの栄えあるグラミー賞授賞式で大失態を演じ、リハビリ施設に入る。退院するが、授賞式での失態は尾を引き、アリーの人気に陰りが出始めたとジャックを糾弾するマネージャー。「まだ一緒にいるだけで笑い者だ」と。
子供の頃、自殺を考えたジャックは天井のファンにベルトをかけて首を吊ろうとしたが、ファンが抜け落ち一命をとりとめた(アル中の父親は息子の自殺未遂にも落ちたファンにも気づかずファンは半年もそのまま床にあった)ことを既に知っている観客は、彼がベルトを手にしただけで全てを悟る…。

絶望と失意の日々を過ごしたアリーは、数ヶ月後追悼コンサートの舞台に立つ。曲は、ジャックがリハビリ施設にいた頃書いたラブソングだ。あなたが去ったら、もう誰も愛さない。
まるで自分がこの世を去った後のアリーの心境を知っていたかのような歌詞。でもそれは本当はジャックが最後の力でアリーにすがりつく歌だった。
ジャックがか細い声でピアノを弾きながらアリーに聞かせたそのバラードを、オーケストラをバックに、大観衆の前で歌いきった時。


無音になった画面いっぱいに、アリーの顔が映る。


この時。全てを超えてスターという魔物が誕生した瞬間をみんなは見たのだ。
ジャックと舞台に立った時でも、グラミー賞を受け取った時でもなく、個人の感傷を超えて、その悲しみさえも歌にして万人の前で力強く歌う力を得た時。歌に世界に届く力が宿った時。
その力と非情の両方を自覚した瞬間が、アリーというスターの生まれた瞬間だった。

Tuesday, May 15, 2018

From a flying theater


                             画像:http://digibibo.com/blog-entry-1847.html


NYに行った。
四半世紀ぶりに。
行き帰りの飛行機は、何しろ飛行時間が12時間もあるので、寝なくちゃと思いつつついつい機内エンターテインメントで用意されている映画を鑑賞。

さらに、とってもひまなので感想もつらつらメモ。

もう3か月近く前のメモなんだけど、スマホの中にひっそり残ってた。
というわけでただの駄文だけど、こっそり「放流」します。


 『三度目の殺人』。
もちろんいろいろ端折られているのだろうけれども、映画に描かれた部分だけが裁判だとすると、もうぜつぼうしかない。
全ては被告人の自白と証人の証言で進行し、これはどう考えても判決を左右する大切な証拠になるからエビデンスを集めるなり裏を取ってこなきゃいけないだろうと思う重要な証言が数々出てきても、誰もそういう行動を取らない。
だから被告人が自白をコロコロ変えるだけで弁護人全員が引きずられて翻弄されてしまい、さいごまで真相は十分に明らかにならないのに死刑が宣告されてしまい、その判決に誰も憤るでもない。

本当にこんなだったらどうしよう。こんなの裁判じゃないだろう。もう絶対どんな形でも日本の裁判に関わっちゃダメだと決心するほどお粗末な裁判だった。

無実で冤罪かもしれないのに、みんなで寄ってたかって「戦略」上有利だとか裁判の進行の方を真実の解明や冤罪を防ぐことより優先してるのも到底納得できない。

だいたい、役所広司演ずる被告が広瀬すずちゃん演じる被害者の娘を「守る」ために嘘をついた、というのがいい話っぽく描かれているけれど、すずちゃん自身は「隠さなければいけなかった今までの方がずっと辛かった、証言します」と言っているのに。
福山雅治も彼女を「守る」ためにとでもいうのか、そんなことをしたらひどい目にあうよと止めるのだが、あれは「脅し」だし、日本の世間も正義も彼女が絶望してきた「見ないふり」の母親の態度とまるっきり同じ、その仕組みに屈服しろと言っているに等しい。
いい話どころかぜつぼう。しかも「守る」ための言葉とはいえ「あの子は嘘ばっかりついてる子ですよ」と言われ、嘘つきの汚名を着せられながら守られるというのも屈辱でしかないのではないのか。

まあ、実際に日本はこんなものだとしたら作品の世界だけユートピアにするわけにもいかないのでこういう作品にしかなり得ないかもしれないけど、だとしたらなお一層怖いじゃないですか。

役所広司は一見礼儀正しく穏やかでありながら凶悪な殺人を犯してしまう、とらえどころのない「空の容器」のような犯人像を大変うまく演じていたし、広瀬すずちゃんの進化も素晴らしく、揺るぎない決心がこんなふうに演じられるくらい成長してるんだなあ、と感心したけど、いったいこの映画は「裁判も弁護士も警察もあほで屑で、そんな仕組みをどうしようもできない日本社会に蹂躙されるのは結局一番弱い立場のオンナコドモなんだがっくり」と「告発」している映画としてそうだそうだと賛同していいのか、「三度目」は自らを殺してまで娘のようなすずちゃんを守った男の話、としてそりゃあ到底納得できないと「全否定」していい作品なのか、そこがぜんぜん判断つかないのが一番もやもやした。

いや、ちゃんと明確でしたよと言われるのかもしれないけど。読解力不足と言われればそれまでだけど。

判断を投げ出せばいいというものではない。

一見どうとらえればいいのかな、というつくりになっていても、そこが明確な作品はたくさんある。というか、にじみ出てくるものが必ずある。

どっちにもっていきたい映画なのかというのはとても重要なことなのに、ものすごくどっちつかずというか、答えを出さずに投げ出して「あなたはどう思いますか?」って煙草でもふかすのがかっこいいってのは妙に古臭い感じがするんだよな。


『ジャコメッティ 最後の肖像』。
アミハマちゃんことアーミー・ハマーの美しい顔をこれでもかと見られる作品なので、劇場で見たかったけど見逃していたもの。
ほんの2~3時間のはずの絵のモデルが来る日も来る日も終わらない、という、言ってみればそれだけの話。今度こそ完成かと思うと大筆に灰色の絵の具をつけてほとんどを塗りつぶしてしまい、 また一から細筆で書き直してしまうのだ。
最終的にアミハマちゃんのとった「作戦」が、「人生は必ずハッピーエンド、もしハッピーじゃなかったらそれはまだおわっていないから」というインド映画でよく聞く素敵なセリフの「逆」を行く方法なのが興味深かった。

長い長い人生、「完成」を追い求めてしまったらいつまでも何も完成しないのかもしれない。完成は未完成の一形態なのだな、それでいいのだな、と思ったりした。


 『ローガン・ラッキー』。
よくあるアイデア満載の強盗もので、まあこんなにうまく(ラッキーに)はいかないでしょう、って話だけど、『キングスマンGC』以来カントリーロードが流れると自動的に泣く体質になってるのでワインも入っていたためこの曲が歌われるところでさめざめと泣いてしまった(笑)。

個人的にはやっぱりアダム・ドライバーの「新しい義手」がツボ!

帰りは『サバービコン』(ネタバレ)。
郊外の理想的・画一的な白人中流階級の住宅地、サバービコンに、ある日黒人一家が移り住んで来る。
彼らが黒人だというだけで、そこに住んでいるというだけで、被害者意識を増大させ、その実暴力的な加害者になっていく住民たち。
なにも悪いことをするわけでもない黒人一家に勝手に危機感を強め、暴動まで起こすかたわらでは「理想的な白人中流家庭」であるはずのマット・デイモン、ジュリアン・ムーア夫妻の家庭で凄惨な殺人事件が起こっているのに、誰も気づきさえしないという強烈なブラックユーモアのある作品。

日本にも似たような人たちがいて似たようなことをしているよなあ

でも、日本の作品にはこんなふうに寝静まった倫理観をぴりりと叩き起こそうとするような強烈な方向性を見いだせない。

ひどい世の中ですよね、と言いっぱなしか、またはまったく違う方向を見て(無視を決め込んで)ほんわかしようと逃走するか。

これだよこれ、日本の作り手に欠けているものはここにもあったよね、という作品かもしれない。

Wednesday, March 21, 2018

シェイプ・オブ・ウォーター(The Shape of Water) 2017


          画像出典:http://www.imdb.com/title/tt5580390/mediaviewer/rm443309568

完璧な作品だったと思う。第90回米アカデミー賞作品賞も納得の

水をテーマにしたブルーグリーンの画面の美しさ。そこに灯る明かりのようにくっきりと映えるイライザの赤い靴。ノスタルジックな舞台設定。映画の歴史への敬意。国家を敵に回そうとも、言葉のない、いや言葉を超えたふたりだからこそ結ばれる強い絆。種の違いなど歯牙にもかけず。
そして恋の力は人間だったイライザを愛する彼と同じ種族に変え、ふたりはいついつまでも幸せに暮らしましたとさ、happily ever after…。

アンデルセンの『人魚姫』では、言葉を差し出す代わりに足をもらって人間となった人魚のお姫様が、美しい人間の王子と結ばれることを夢見る。デルトロ版『人魚姫』とも見えるこの作品で言葉を失ったイライザが結ばれたのは、人間の王子ではなかった。(『美女と野獣』の野獣のように魔法が解けて人間に戻ることなく)最後まで異形のままの半魚人だった。海の泡となって消えていくアンデルセンの人魚姫と違い、力強く幸せを引き寄せたイライザは、自分と同類の王子を得たわけだ。そして自分の声を奪った首の傷はエラとなり、水中で呼吸できる「元の」人魚の姿に還る。

『人魚姫』よりも『美女と野獣』よりも強い恋の物語!

 こんな話、好きでないはずがない。

なのに、あろうことか終映後、どうにも置いてけぼりをくらった感触がごまかせない。
少しショックで、悔しくて、人には言わないでおこうと思いながら椅子から立ち上がり、とぼとぼ帰ったことだった。

それからずっと、自分が「乗れなかった」理由を、記憶を巻き戻して考えていた。

というわけでこれは罪滅ぼしの「シェイプ・オブ・ウォーターに乗れなかった理由の考察」だ。

思い当たる「置いてけぼり感」のポイントは、実はこの映画で最も感嘆した場面でもある。

それはイライザがバスルームを水で満たし、窮屈なバスタブの中ではなく自由に手足が伸ばせる水中で半魚人の彼と踊るように抱き合った後の場面だ。
ジャイルズがドアを開けて水を抜くと、悪びれることなく床に立って彼と抱き合う姿を見せるイライザ。その顔は誇らしげと言えるほど完璧な幸福感で満ち足りていて、彼女の笑顔を美しいと思うと同時に、どうにも置いていかれた感覚を味わった。そう、ここだ。

おそらく人間の男性との恋の経験は多くはないであろうイライザが、人間の代替としての半魚人でもよしとするのでは断じてなく、彼女が紛れもなく世界で最も愛する存在から愛を勝ち得た表情を見せた時、わたしはその「揺るぎなさ」に「置いていかれた」のかもしれない。

心の底の方で、なにかが小声でこういうのが聞こえてしまったのだ。

だって、魚でしょう?

デルトロ監督が主人公の恋の相手を異形のもの(最後まで人間の姿になることもない)にしたのはなぜか。異種異形のものというのは、見るものが無意識のうちに持っている偏見をあぶり出してしまうのだ。

作品中には異種のものに異種であるというだけで素朴な嫌悪感を露わにする人物が多く登場する。出自や容貌にこだわりやコンプレックスを抱く人物、ある程度以上の年齢の人物を簡単にお払い箱にする組織などもあいまって、LGBTQ差別、人種差別、容貌差別、年齢差別、障害者差別に職業差別と、差別と偏見のショーケースのようになっている。それは現実の縮図でもある。

普段、自分はそんな偏見は持っていないと思いながら生きている人間が大半だろうが、実は自分たちもあのカフェのウェイターと同じく、屈託なく善意のまま偏見をふりまいているのかもしれない。

「いやいや、わたしは彼が黒人だから差別しているのではない、彼が横暴だから嫌いなだけだ」などという言い訳は何万通りも繰り出されるだろうが、赤いゼリーを緑に描き変えようと、ゼリーがゼリーである限り受け入れないのが本音なのだ

冷たくて鱗があってヌメヌメと濡れているものと抱き合うのは気持ち悪くない?肌を重ねると鱗やギザギザのヒレが引っかかるのではない?顔を近づけると(彼は半魚人史上最高のハンサムだけど)、首筋でエラがパクパクしているのってどう?それに、…たぶん彼は川の匂いがするよね?

保護ならいいのよ、同情とか。でも、恋愛は…。

私の全神経がイライザの幸福感に共感する一方、湧き上がるそんな小声を抑えきれない。

そして、自分の生理的嫌悪より、実はもっと怖いことがある。

きっと周り中から言われるはずなのだ。
ええ?彼は魚でしょう?気は確か?と。わたしは一瞬のうちに、多分そこまで考えて、ひるんでしまったんだと思う。

胸の奥でチクリと何かが痛んだのは、異種を問答無用に嫌悪する自分が見つかったこと、そしてそれ以上に、常に周りの目や評価に価値観の根幹さえ揺さぶられかねない、情けなく醜い自分を発見したからだったかもしれない。

それにひきかえ、イライザは揺るぎない
かけらの迷いもなく彼を愛しているし、そんなにも愛している彼と会えなくなっても、やはり彼を水中に帰す決意もしている。
どうして、そんなに強いのだろう?

その強さゆえにこの異種間の恋は成立するのだけれど、同時に心の弱さをあぶり出されてひるむわたしのような人間もいるのかもしれない。まあ、イライザほどの恋はめったにできまい。なにしろ相手は結局は「神」なのだから…。

ただ、このふたりの恋が孤立していないところが、作品の優しさであり、ファンタジーらしい部分でもあると思う。
現実は差別や偏見でよどんだ濁り水かもしれなくても、監督はイライザのまわりに彼女の恋を全力で応援するジャイルズやゼルダを配置してくれた。彼らがいるおかげで、この恋は悲劇で終わらずにすんだのだ。 
どうやらわたしは立ち位置を間違えていたのかもしれない。むりやり強いイライザに共感しようとして失敗したのかもしれない。イライザにはなれなくても、ジャイルズやゼルダになれれば、誰かの恋の後押しくらいはできる。この作品の語り部がジャイルズであるように、せめて恋の幸福感や昂揚感を讃えられる人間でいたい、私も。
  

Unable to perceive the shape of You, 
I find You all around me. 
Your presence fills my eyes with Your love,
It humbles my heart, For You are everywhere...

あなたの輪郭はつかめない
あなたはわたしのまわりじゅうに満ちているから
あなたがいるとわたしの視界は愛でいっぱいで
身に余る幸福に畏れ多くなる
見渡す限りあなただから…

---

ところでこの作品では敵役ストリックランドが半魚人に指を食いちぎられるのだが、映画の少し前に見た別の人魚映画『ゆれる人魚』(こちらは100%置いていかれることなく好きな世界観に浸れる映画だった!)にも、人魚の姉妹が雇われるクラブの主人が人魚に指を食いちぎられる場面が出てくる。さらには、『スリービルボード』にも歯医者が主人公ミルドレッドに指に穴を開けられる場面が出て来た。

指、ってなにかあるのかしらね?

と朝食を食べながら横にいる娘に聞くと、

指は真情を語るもの=言葉ということじゃない?
Frozenのエルサが手袋で覆い隠し封じ込めるもの、イライザが心を語るもの。
指を奪うのは黙ってろということでは?

そしてストリックランドはその指が腐ってる…

と言って、仕事に行ってしまった。

なるほど、それはたしかにあるかもしれない、と思いながらわたしも朝食を片付けて、今日も差別と偏見で濁る水中のような世の中に、弱虫のまま出かけて行く。


Wednesday, October 4, 2017

パターソン(Paterson)2016

    
         画像:https://www.flixist.com/review-paterson-220910.phtml

ニュージャージー州パターソンは、ハドソン川を挟んでマンハッタンからもさして遠くない位置にありながら、慎ましやかな小さな街のようだ。
その街で路線バスの運転手をしている主人公は、街と同じパターソンという名で、美しいガールフレンドのローラと、イングリッシュブルドッグのマーヴィンと暮らしている。
彼は、あらゆる小説や映画に登場する青年の中でも、きっと一、二を争うほど「感じのいい」青年だ。
しかも、詩を書く。

この映画は、彼のとある月曜日の朝から、次の月曜日の朝までの話で、いわば「映画で書いた詩」のようだ。きっと、繰り返し読み返すように、見たくなる。

詩とは、なんなのだろう。
風の中に消えてしまいそうな、か細いつぶやきも、取扱説明書の一行のような味気ない言葉も、舌の上で繰り返し転がしてみると、繰り返される(pattern)うちにぼんやりと違う形を持ち、リズムを持ち、やがて心のひだに隠れていた思いがけない感情を描き出す触媒になることもある。

毎日同じように繰り返す「日々」そのものも、こうして詩になっていったら、いいね、きっと・・・。

"Love Poem"と題された彼の詩は、朝食のテーブルに置かれたオハイオ・ブルーチップの青いマッチ箱の描写から始まる。
どこにでもあるマッチ箱の中に行儀よく並んだなんでもないマッチ。些細な日常の描写から、やがて詩は、しゅっと音を立てて体の倍ほどの炎を作るマッチのように、突然熱を帯び、羽を得て飛び立たんばかりに高らかに愛を語る。

静かで清浄な日常の中に、慎ましやかに畳み込まれている狂おしいほどの愛情。穏やかな彼の中にあるそんな熱情は、しかし、詩の中にしか示されない。

映画の中ではほとんど事件は起こらない。
せいぜいバスが少し故障して、詩を書き溜めた「秘密のノート」が愛犬マーヴィンのかわいい嫉妬でビリビリにされてしまったくらいだ(まあこれはショックといえばショックだよね)。
モノクロのカップケーキを山のように焼き、家中のファブリックに直接ペンキを塗って模様替えするひたすらキュートなガールフレンドはあくまでも優しく思いやりがあるし、1日の締めくくりに立ち寄るお気に入りのバーがある。What more can you ask?

にもかかわらず。

彼のこんなにも平和な淡々とした日々と、大切に胸にしまいこまれた愛情は、なぜかどちらも穏やかならざるものを内包しているように思えてくるのだ。

愛する人と体を寄せて眠る快適な温かさが伝わるような冒頭の場面から、ほどなくしてカメラが、体に似合わない小さなブリキ缶のお弁当箱を下げてバス会社に向かう彼の大きな背中を追うとき、すでに思いがけない恐怖が足元から駆け上がってくるようでわたしは思わずすくんでしまった。
そんな場面に似つかわしいのは、軽快で明るいメロディーやリズムのはずなのに、なんということか、彼の通勤路に流れるのは死や悲劇を予感させるような美しくもの哀しい短調だったのだ。

だから、こんな微笑ましく素朴な善男善女の一週間の話を、わたしは実は最後まで息を詰めるような思いで見た。
まさかこんな幸福な日常のどこかが崩れ落ちて、真っ逆さまに落ちませんようにと。

パターソンの、命の強度を疑うことなく生きている人間にしては優しすぎる行動や言葉のすべてが、そのたびに不安を掻きたてたのだ。

物語は、そのつきまとった「悪い予感」の正体を明かしてはくれない。単なる思い過ごしか、それともひっそりと種明かしが忍び込ませてあったのか。

2度ほど、さりげなく映る軍服姿のパターソンの写真は、胸にたくさんの勲章をつけている。バーで一瞬見せた身のこなしも、軍隊経験から来るものだったかもしれない。でも、よくある「軍生活のトラウマ」が彼に何かの作用をもたらしたのかどうかは、語られない。

あんなに仲のいい二人が、連れ立って出かけることはまれで、たいてい単独行動をしているのも、ごく普通のカップルにしては少し奇妙かもしれない。でも、その習慣についても、何も語られない。
試や詩人に詳しく、教養のある青年が、路線バスの運転手をしているのも、少し似つかわしくない。でも、その理由も説明されない。

詩作のノートを失った彼は、そのことに落ち込んでいるというよりはさらにずっと根源的な悩みに沈むような表情で、散歩道の滝のそばに座る。
するとここに表れるのが永瀬正敏演じる日本人の詩人で、彼は微妙にへんてこな言い回しの英語と、なんの脈略もないようでいて実はパターソンの悩みの一点を突いたかもしれない言葉で、彼の沈うつな気分をうまくからげて持って行ってしまったようだ。

―パターソンのバスの運転手!それは詩的ですね。ウィリアム・カルロス・ウィリアムスの詩にありそうです・・・。

あるいは、特になんの背景も事件も、なかったのかもしれない。
彼はただ、詩が日常を蒸留して純粋な水を精製するように、生にまつわる哀しみのようなものを、見えるようにしてくれただけなのかもしれない。
すべての生には終わりがあって、生きている間に得た愛情も作り出したものも、すべてやがて消えてしまうという哀しみ・・・。

それでも、たどり着いた今の自分から、始めるしかない。
ニュージャージー州パターソンで路線バスの運転手をしている自分。街と同じパターソンという名で、美しいガールフレンドのローラと、イングリッシュブルドッグのマーヴィンと暮らしている。そして、詩を書く。


そんなふうに。